第1部 はじめの一歩
(7)教科書のない学校
 教科書は、いわゆる検定本ではなく、絵本が渡されていた。だからといって、その絵本で授業をするわけではなかった。注目して見るというのは、そんなに簡単なことではないのだ。

 小高の職員室の2つの壁は、天井までの棚にびっしりダンボ−ルが積まれていた。
 その箱の一つひとつに、マジックで大きく中身が書いてあった。「ボンゴグッズ」「小ボンゴグッズ」「赤頭巾ちゃん衣装」「お化け」「オオカミ手足」「パクパク人形」「宿泊グッズ」「ペ−プサ−ト」「海の布」「電車ロ−プ」「雪」もあったし「墓石」もあった。
 いろいろな素材も分類されて箱に入っていた。ロッカ−の上には、大きなオオカミの頭が赤い舌を出して並んでいた。手作りの教材は、その後も増え続けた。全長5mの虎や、高さ2,5mのゴリラも同居するようになった。

 職員室の窓からは通路に沿った細長い庭が見えた。藤棚の下に砂場があって、4人乗りブランコに春の日差しが踊っていた。
 ここに居ると、たとえ狭くても、そうした風景がうれしかった。廊下には、トトロに出てくるネコバスもあった。5〜6人の子が乗れる台車もあった。
 
 この学校には、小さい子が喜びそうなものが、ごたごたと置いてあった。その、ごたごたの上に、また荷物が増えていく。時々、片づけるのは、たいてい男の先生だった。女の先生は、そのごたごたの中から必要な物を上手に探して行った。 
  一番最初に、私が「すごい!」「教室でこんなことしていいの!」と思った出来事は、教室の天井にロ−プを下げてブランコが始まったときだ。こんな事が一度でも経験できたら、小学生でチック症になる子なんて、いなくなるだろうと思った。 教室というのは、机に向かい椅子に座り、ノ−トと鉛筆を持って勉強して・・・そういう所だという固定概念が崩された一瞬だった。

 何かにつけ評価され、学力を比較され、「勉強の終わらない子は休み時間に頑張りなさい。」と言われ、結局、一日遊べなかった日もある。 1年坊主の長男は、そんな学校生活をスタ−トしなければならなかった。毎朝、泣くので一番近くの信号まで手を引いて送っていた。「ママ、学校って遊べないんだよ。」泣きながら、そう訴えた。長男が泣かずに登校するようになったのは、業間休みに校庭に出て遊ぶようになってからだった。

 養護学校の小学部は「遊び」をとても大事に扱っていた。遊びのなかで、子どもが人を意識したり、人に関心を持ったり、人に自分がして欲しい事を伝えたり、思いっきり遊び込めたり、そんな力を伸ばせると考えていた。
 それがテ−マのある遊びならば、イメ−ジを拡げたり、言葉を拡げたりもできる。「共感関係」を育てる、ということも大事にされていた。
  それで、楽しく遊べるように、工夫され作られたものが、あのダンボ−ル箱の山だった。 箱の中の世界を、どんなふうに開き展開するかは、教員にかかっていた。

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