(2)はじめの一歩 |
勤務先が内定した。 私が初めて養護学校に行ったのは、面接の日だった。新しい仕事だ。自分の世界を拡げてくれるような、そんな期待に満ちていた。 2階の事務室でしばらく待ってから1階の校長室へ行った。1階の暗くて長い廊下で、5人の子どもたちがかけっこをしていた。先生も2人いた。「廊下でかけっこの授業をしている」と校長室に入りながら思った。 なにしろちょっと前まで私は、「5月の生活目標は、廊下を走らないです。わかった?」なんて子どもたちに話していたのだし、なにしろここは校長室前の廊下なのだ。 後でわかったことだが、ここでは子どもたちの学習グル−プ数に比べて教室数が足りず、場所を確保するために会議を開いて話し合わなければならなかった。必然、学校のあらゆる場所が授業の場になっていた。 勤めるようになってからは、この廊下はなかなか有効な場所と分かった。『脱線列車』の授業の時は毎回使わせてもらった。夏の宿泊の夜は、お化けたちが子どもたちに悲鳴を上げさせようとうろついていた。長くて暗い廊下というのも時には楽しい。 養護学校は、在職の先生方が作った校歌にあるとおり坂の上に建っている。かなり急な坂で、自転車通勤の先生は「心臓破りの坂」とも言っていた。周りには緑もたくさんあって、いろいろな散歩コ−スもあるのどかな所だった。 しかし、4月になって勤めるようになると、また印象というのは変わってくる。 校門に鍵があって指導時間はいつも鍵を外さなければ出入り出来なかった。そして、門はまた閉められる。窓は子どもたちの安全のために、左右10センチぐらいしか開かなかった。4月も午後になれば気温が上がる。 気温が上がるにつれ、私の気分は酸欠状態になっていった。 毎日、子どもに振り回されていた。庭の芝生の上を小さな子どもが這っていると思えば、すぐ脇の通路を中学部の子がドッドッドッと走っていた。教室から庭に出ると、私は自分のクラスの子さえ掌握できなかった。たった6人なのに・・・いま考えれば、多動な子たちではなかった。けれど、整列して待っている子に慣れていた者にとって、興味のままにどこかへ行ってしまう子どもというのは脅威に感じられた。それに、チャイムが鳴ったからと戻って来るわけでもない。 この道20年というベテランの先生が子どもと夢中になって遊んでいる。若い女の先生は「あっ、水をかけたな。今度は先生が水をかけるぞ〜!」と、これまた楽しそう。男の先生に肩車してもらって大喜びの子もいる。 私と言えば、ただあたふたしている。子どもと自由遊びの時間なのに、子どもはどこへ行ってしまったんだろう・・・。ふっと視線を上げると、高等部の子が高鉄棒の上にすっくり立っている。目が回るような日々だった。 |
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